献眼活動とは・・・
私たちは、光を取り込む角膜、ピント調整をする水晶体、色や光の強さを電気的な刺激に変え脳に伝える網膜・視神経のすべてが機能して、モノを見ることができます。
この中で、角膜にのみ病気をお持ちの方は、角膜移植によって光を取り戻せる可能性があります。
角膜移植は、善意の献眼があってはじめて成り立つものです。角膜は160年から180年間機能すると言われており、ご提供に際し年齢制限はございません。
アイバンクでは、ご提供いただいた角膜を適正に評価し、公平・公正に、待機患者様にお届けしております。
両眼のご提供をいただいた場合には、お二人の患者様に移植されます。
献眼後には、いくつかの検査が必要です。血液の検査、角膜の検査をさせていただきます。
場合によっては、すぐに移植に用いることが出来ないこともございます
ご献眼にあたっては、生前の献眼登録がなくても、ご家族が承諾することで、お受けすることが可能です。
どうぞご協力ください。
光と愛と 献眼の碑 裾野市桃園霊園内に建立
ライオンズクラブとアイバンク運動
ヘレンケラー女子の「闇を切り開く盲人の騎士になれ」という呼びかけに即応 1925年、アメリカ・オハイオ州で開催された第9回ライオンズクラブ国際大会の記念講演に招かれた三重苦の聖女・へレンケラー女史は、全世界から集まったライオンズメンバーに向かって「私のような不幸な人間が二度と再びこの世に現れないように、皆さまのお力によって、失明の予防と盲人の援護をお願いしたいのです。 あなたのランプの灯をもう少し高く掲げてください! 見えない人々の行く手を照らすために! ライオンズよ、闇を切り開く盲人の騎士となれ」 秘書サリバン女史の手話通訳を通じて、このヘレンケラー女史の声なき声が会場に響いたとき、満場のライオンたちは、思わず総立ちになって「うぉーっ!」と叫びました。「よし、受けて立つぞ」という決意が期せずして「うぉーっ!」という叫び声になって、会場にどよめいたのです。
アイバンク運動、視力ファーストはライオンズクラブの奉仕活動の歴史でもある ヘレンケラー女史の声なき声に呼応した「うぉーっ!」という叫び声は、ライオンズメンバーの士気を高めるライオンズクラブ特有の儀礼「ライオンズ・ローア(雄叫び)、アメリカではライオンズ・クレイ(叫び)という」となって今に伝わっていますが、以来、盲人用の「白い杖」を世界に普及させたライオンズクラブでした。
盲導犬を育成訓練したのもライオンズクラブ、アイバンク運動に積極的に取り組み、各地にアイバンクを設立したのもライオンズクラブです。こうしてみると、ライオンズクラブの奉仕活動の歴史は、盲人厚生と視力保護がその根幹をなしているといえます。
ヘレン・ケラーと青い鳥】
1904年ヘレンは優秀な成績で名門ラドクリフ大学を卒業。そのとき青い鳥の作者メーテル・リンクの夫人が米国を訪問していた。夫人はヘレンを大学に訪ねて「あなたこそ幸福の青い鳥を発見したただ一人の人です。」と卒業を祝し,女史のように、明るく、楽しく努力をすれば必ず青い鳥は見つかると話しました。
アニー・サリバン】
5歳の時トラコーマにより失明、その後手術によりかなり回復。 7歳のヘレン、アニー・サリバン22歳でケラー家の家庭教師になる。 見えない、聞こえない、話せないの三重苦のヘレンに献身的な努力を捧げた偉大な教師。映画「奇跡の人」の主人公。 米国の著名な作家マークトウェンは彼女をナポレオンと共に「19世紀の奇跡」とたたえた
盲人の為の白い杖】
1930年イリノイ州ピオリアLC会長Lジョージ・ボナムは市内繁華街で一人の視覚障害者が交通ラッシュで立ち往生しているのを見て、事故を防ぐために白い杖を考案。クラブ承認後、ヒオリア市内の視覚障害者に配り、全米に広がった。
ヘレンの恋】
ヘレン37歳、秘書で元新聞記者のピーター・フェイガソンと相思相愛となり婚約する。ヘレンの独断だった為家族が猛反対。特に保守的な母は労働運動をしていたピーターを嫌い、その反対ぶりはピーターにライフル銃を向け「今後一切近づくな。さもなくば射殺する」と脅迫した。ピーターは秘書を辞めさせられて、ヘレンと別れ別の女性と結婚。ヘレンの最初で最後の恋。生涯独身。
「愛と光と」献眼の碑は裾野市桃園霊園にございます。JR裾野駅から徒歩20分、車で5分程度の距離にあります。
裾野ライオンズクラブでは12月の初旬、会員一同で献眼者の皆様の献眼供養法要をしています。